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北海道民医連新聞

民医連看護が輝くとき

いのちの賛歌
2008-09-02 19:55

いのちの尊さを伝える看護師 鎌田茜さん
がんと闘い出産・育児
がんとたたかいながら出産し、「命の重み」「生きるとは何か」を講演で問いかけている女性がいます。勤医協札幌看護専門学校卒業生で、勤医協札幌病院4 病棟に勤務していた、鎌田茜(あかね)さんです。

無情な宣告
左顎下に小指大の腫れがあるのに気づいたのは2006年3月です。茜さんのお腹には新しい命が宿っていました。一度は流産し、不妊治療の末に授かった命でした。
 
「たぶん唾石でしょう」医師の言葉に茜さんは胸をなで下ろしました。しかし、腫れは急速に大きくなり、5月にはこぶし大にまでなりました。
 
「90パーセント悪いものではないと思うが、早く手術した方が良い」と勧める医師に、茜さんは「もう少し先にしたい」と答えました。胎児の発達にとって妊娠4カ月までは特に大切な時期だと、看護師の知識で知っていたからです。
 
6月、襲いかかる激痛に耐え、妊娠17週目に入るのを待って手術しました。胎児がいたため麻酔の追加ができず、腫瘍の一部を残して傷口が閉じられました。
 
がん肉腫でした。がん患者40万人に1人、日本国内で年に1人が発症するかしないかの希な病気です。
 
「あなたの腫瘍は非常に悪性度が高い。子どもをおろしてすぐに再手術すべきだ」。茜さんの耳に、医師の声が無情に響きました。

特別な看護師
茜さんが、がんに冒されたのは、これが初めてではありません。
2001年、勤医協札幌病院で働き始めてほどなく悪性リンパ腫を発症しました。つらい抗がん剤治療に耐え、半年後には職場復帰を果たしました。
 
「入院先の同世代の看護師がキラキラして見えました。早く職場に戻りたいという気持ちが支えでした」復帰した病棟で、同じ病気の40代の女性が抗がん剤治療の辛さ、髪が抜け落ちる寂しさを訴えました。
茜さんは自分のカツラをスポッと脱いで、「大丈夫ですよ」と励ましました。
 
「本当ね」。女性の顔に、笑顔が戻りました。茜さんは入院患者に「特別な看護師」として信頼されるようになりました。
 
化学療法の後遺症で疲れやすく、指先の痺れで注射の際に血管を探せないなどの困難に耐えて働き続け、2004年9月、中学校教師の守さんと結婚し、退職しました。2人は中学校の同級生でした。

いのちの選択
涼しい風が吹き抜ける自宅の居間で、1歳9カ月になった憩(かい)くんを遊ばせる茜さん。「丈夫で風邪も引きません。よく遊んで、よく眠ります」憩くんが、愛らしい喃語で遊びを催促します。
 
「憩に多くのことを望んではいません。産まれてきてくれたこと自体が奇跡だし、存在しているだけで有り難い。神経質に育てているつもりもありません」
 
2年前、茜さんは自分と憩くんの命のどちらを優先するかを迫られました。「子どもを諦めて再手術しましょう。手術しなければ、出産までの命の保障は母子ともにありません」医師の言葉に、涙を浮かべる夫の守さん、すすり泣く母親。

「茜だけは助かってほしい」という父親に、茜さんは「お父さんが私を可愛いと思うように私もお腹の子どもが可愛い。もし子どもを殺して私が助かっても、罪悪感を背負って私は生きなければならない。そういう人生って何だろう」と訴えました。
 
医師に「あなたはがんを甘く見ている」と言われました。茜さんは「私が先生と一緒に働く看護師だったら、同じように『子どもをおろして治療すべきだ』と勧めたと思う。でも、今の私は看護師ではなく患者です。自分の生きたいように生きます。そうすることが私のQOLを上げることになる」と説得しました。
 
病室で付き添った守さんは明け方、「茜の存在が大事だけれど、茜が笑顔で楽しく生活しているのが一番だから、もし茜が死んだとしても俺が子どもを育てていく」と、声をしぼり出しました。
「その代わり茜も病気に屈しないで生きていこうね」と。守さんは、勤務先の学校で父子家庭の子どもの厳しさを見ています。そういう子を自分たちはつくってしまうのかもしれない——。様々な葛藤を乗り越えた末の守さんの言葉に、茜さんの心は震えました。

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