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北海道民医連の原風景

浦河診療所の窮地を救った名医
2008-03-24 19:19

内藤晋所長の人間ドラマ

浦河診療所が最も困難な時期(1956年?1966年)に診療所を支えた医師がいます。
 「まじめに診療をやりましょう。決して心配することはありません」
 所長経験者が近所で開業し、動揺している職員を前に、新所長の内藤晋氏が静かな口調で激励しました。
 

 医学書をひもとく内藤晋所長=1960年、「浦河診療所創立30周年記念誌」から
 京都府立医大で長く助手を務め、明石で開業、還暦を過ぎてから余生をへき地医療に捧げようと浦河診療所所長に就任しました。後に「名医」「清廉潔白の明治を象徴した人格者」と評されたその人は、しかし、生活保護の患者が来ると「働きもしない怠け者に診療なんかできますか」と不機嫌になり、「診療所に来た患者だけを診ていればよい。外で医療相談などする必要はない」と言う人でもありました。「別人種」のような所長に戸惑いながら、職員は患者さんをなだめ、老医師をもりたてました。
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 1959年、全国的に赤痢がまん延し、診療所職員は環境衛生や予防法を行政や町民に訴えて町内を奔走しました。国民健康保険の実施を求める運動でもたたかいの先頭に立ちました。
 1960年、ポリオが大流行し、診療所は母親たちとともにワクチン輸入を求める運動に全力をあげました。流行阻止のため地域で講演会や懇談会を開き、啓蒙に力を入れました。毎日のようにあちらの団体、こちらの団体の招きに応え、内藤所長は地域の人々との交流を深めました。
 開拓農民の健康相談会、中断患者訪問、国保実態調査など、60年安保闘争、小児マヒ闘争を経て、診療所はさらに地域住民の中へ入る活動を強めました。
 職員の住民への献身に応えるように、内藤所長はどんな風雪の日にも、夜中であっても、断ることなく往診に応じました。ほとんどが他の医療機関の患者さんでしたが、「ハイヤーは患家の負担になる」と、よほど遠いところでない限り、自転車で駆けつけました。

血圧測るひとみやさし 

 1966年に内藤所長は体調を崩し、退職します。高齢を押して地域医療の民主化のために奮闘した同医師の思い出を、長く浦河診療所で婦長を務めた小山とし子さんが次のように書き記しています。
 「内藤先生は、勤医協の目指す医療活動に賛同して来られたわけでもないので、職員からみると、別の人という感じは否めなかった。しかし、この10年間の診療活動の中で、感じられたものは多かったようである。大学では教わることが出来ないようなことを、君達から教わった。これからも、いっそう勉強して地域につくして下さい。たのしかった10年間だった、と話されていた」(「創立50周年記念誌」への原稿から)
 臨終の床で内藤医師は、「浦河時代は本当に良かった。看護婦は良い人ばかりで」と、阿部昭一氏(当時札幌病院院長)に語ったといいます。

 夜の炉辺に血圧測るひとみやさし 
 雪の野の患者さがして深夜歩く
 
 内藤医師が、浦河時代に残した俳句です。
日高地方の風物、競走馬の牧場

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