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北海道民医連の原風景

青春の日々に悔いなし
2008-03-25 08:00

浦河診療所婦長として40年 小山とし子さん



 「若かったらもう1度、診療所で全力をつくす仕事をしてみたいですね」と、浦河診療所の元婦長、小山とし子さん(81:写真左下)=浦河町在住=は目を輝かせます。小山さんの胸を満たしているのは、「地域の人々の人生を支えてきた」という喜びと自負心です。
           看護師と事務職員。後列右から2人目が若き日の小山さん=1951年、入舟の浜

 1926年、秋田県象潟町で7人兄姉の末娘として生まれた小山さん。東北大学看護婦養成所を44年に卒業し、北海道由仁町の病院で終戦を迎えました。そこで「浦河に働く人のための病院ができる。外科の看護婦を求めているそうだ」と聞き、49年早春、浦河駅に降り立ちました。
 駅では事務長や看護婦が幟を立てて迎えてくれました。案内された診療所は柾葺き屋根の、医療機関とも思えない姿でしたが、患者さんは次から次へと押しかけてきました。小山さん以外は全員無資格の看護婦でしたが「加藤久太先生がよく教育し、とても仕事ができました」。診療が終わると、看護技術や消毒の方法を彼女らに教えました。
 手術は外の水道栓からバケツで水を運び、手術場を掃除するところから始まりました。子宮破裂や前置胎盤の患者さんも担ぎ込まれました。
 「みんな加藤先生を信頼してのことでした。私もあらん限りの知識を動員して全力を挙げました」

 食糧不足で町全体が飢えに苦しみ、抵抗力の無くなった人々は、コレラやチフス、天然痘、赤痢などに簡単に感染しました。結核も蔓延し、大勢の人があっけなく死んで行きました。
 当時、肺炎は死につながる病気でした。ペニシリンは手に入らず、肺の血液循環を助ける芥子湿布が小山さんの頼りでした。「婦長さん、もういいから」と母親が諦めても3日3晩付ききりで看病し、命をとりとめた子どももいました。
 「10年後でしたか、『助けてもらった子どもです』と成長した息子さんを連れてきてくれました。同じように湿布で生き延びた女の子は保健婦になりました。嬉しかったですね」
 52年3月の巨大地震では浦河日赤病院が全壊し、手術の必要な人は全て診療所に運ばれてきました。
 「待合室にリンゴ箱を並べ、戸板を置いてベッド代わりにしました。朝から晩まで手術をした覚えがあります。薬も器具もない。あるのは熱意だけでした」

 53年、過労で加藤所長が倒れ、医者が次々に変わる苦難の時代が始まります。夜間の往診に行かないという医者に、「医師を志した動機は何だったのか」と詰め寄ったこともありました。
 「若かったから出来たのでしょうね。何も恐ろしいものはない時代でした」
 混乱の時期に、「へき地医療に余生を捧げたい」と着任した内藤晋所長は、忘れられない人です。医療保護の患者さんのカルテを渡すと「こんな怠け者なんか診れません」とカルテを投げ返したその人は、職員や町民との交わりのなかで、「内藤先生は良い先生だった」と、40年後の今日も町民に慕われる医師に変わって行きました。
 「体調を崩してお辞めになる時『君たちには大学では教えてもらえないことをたくさん教えてもらった。楽しい10年だった』と言って頂きました。その時、私たち職員と先生の気持ちが一つになりました」
 自信もって頑張ってほしい
 数年間、給料が支給されない時期もありました。借金取りが来ると「事務長さん出かけたんです」と小山さんが女房役をしました。
 「診療所の食事はとても美味しく、それで満足していました。お風呂に行く時は事務からお金をもらって行くとかね」
 しかし、子だくさんの事務長の奥さんが「この子たちを殺して私も死ぬ」という騒動が起きるに及んで、暢気に構えてはいられなくなりました。
 小山さんはクビを覚悟で札幌の勤医協本部に乗り込み、「10万円出すまでは帰らない」と迫りました。
 「クビにされたら仕方ないけれど、自分で辞めようとは思いませんでした。とにかく仕事が楽しかったですからね」
 娯楽の少ない子どもたちのために、職員が浜で輪になって八木節やロシア民謡を歌い、巌窟王などの紙芝居をしました。町民を対象に公衆衛生や産児調節の講演会も開きました。下水が詰まれば役場にかけあい、「困っている人がいるから行ってあげて」と言われれば遠くまで訪ねました。

 小山さんは折にふれて医学生や看護学生に体験を話してきました。
 「こんな話をすると『婦長さんたちはどんな看護をしてきたのですか?』と聞かれたりします。当時は、地域の人たちが人間らしく生きる最低限の条件を整えるために多くの時間を費やしてきましたね」
 自分たちのやっていることが、町民の生活や、人間としての尊厳を守っていることが何よりの喜びだったと振り返ります。
 「今は社会が複雑化して要求が見えづらくなっています。そんな中でも看護師さんたちは1人ひとりの個別性を見極めながら、地域を支える素晴らしい活動をしています。自信を持って頑張ってほしいですね」

 40年近く婦長として診療所を支えた小山さんは、2人の子どもを育てながら仕事を続けた働く女性の大先輩でもあります。
 浦河高校と電電公社に勤めている女性、小山さんの3人が連携し、ミルクとオムツを用意すれば預かってくれるという保育所を探し出して働き続けました。
 「浦河では乳児保育の草分けだったと思います」
 当直の夜、空いているベッドに子どもを寝かせて働いたこともあります。
 「遅く帰宅すると子どもたちがランドセルを背負ったまま寝ていたこともありましたね」
 涙を流した日もあるけれど、毎日が充実していたと微笑む小山さんです。
 「本当に生き甲斐を感じて働きました。地域を支え、役に立っているという自負心もあったのでしょうね。若かったらもう1回、同じ仕事をしてみたいと思います。もう1度、全力を挙げる仕事をしてみたい」
(北海道民医連新聞2007年9月27日第276号)
            浦河港の夕暮れ

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