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北海道民医連の原風景

北の大地に明日を拓いた道北勤医協
2008-03-24 18:21

先達の熱い思いを新しい時代へ引き継いで

 「少年よ大志を抱け」。クラーク博士が、この言葉を残した北の大地、北海道。その北域に民主診療所を開いてまもなく三〇年。道北勤労者医療協会(道北勤医協)の足跡から見えてきたものは?。
  旭川医院建設仮事務所(1975年8月)

 JR旭川駅前でホームレスが行き倒れになった。駆け寄ったタクシー運転手たちが、「受け入れてくれるのは、あそこしかないんじゃないか」と、男性を一条通病院に運び込んできた?こんなエピソードを持つほどに、道北勤医協は住民の中に厚い信頼をつちかってきました。

経営体の異なる民診を
 北海道で最初の民医連・北海道勤労者医療協会(札幌)は、一九七〇年代の医療構想として「道内の中核都市に経営体の異なる民主診療所を建設する」方針を立てました。前北海道民医連会長の森谷尚行さんは、当時の事情をこう話します。
 「全国的には法人をまとめて力をつけようと議論していたときですから、我々は逆行していると見られました。しかし、北海道は広くて生活圏・文化圏がそれぞれ異なる。これを分析して六ブロックに分けました。そして、その地域で責任を持った活動をするために、決定権を持った組織にしたい。小さくても自主独立の決定権を持ち責任を持つとなると、確かに幹部は試されます。しかしその方が幹部づくりの面でもいいと考えたのです」
 これに呼応して「旭川でぜひやりたい」と名乗り出たのが、当時三五歳の萩原信宏医師。医師集団のなかで、「民医連とは何か。勤労者のための医療とは?」と熱い議論を重ねた末の決断でした。
 「道北百万の人々を視野に、医療を変え・政治を変え・文化を変える、と意気込んでいました。ですがね、"金は出さない。人も山さない。出すのは萩原だけ"。何もかも自前だったな」と笑います。
 この開拓者魂に共鳴して、二人の協力者が現れます。萩原医師に誘われ東京からUターンした波治裕美氏と浦河診療所で働いていた太田元美さん(現旭川市議:写真左)。

                     旭川医院開設時の苦労を語る荻原信宏医師
 太田さんは、「空白地に新しい診療所を作る仕事なんて、めったにないチャンス。民医連の職員だから、一度は冒険してみたかった」と語ります。




開拓者精神に燃えて

 萩原、波治両氏が旭川に入ったのが七五年夏。倒産した土建会社の敷地(二五〇坪)を買い取り、物置小屋を建設準備室にし、社屋を増改築して診療所にしました。「別法人で始めるのですから、私は、いったん退職。退職金は百万円あったかなあ、それが当面の資金で、みなの生活費にも消えたかな」と、苦笑します。
まずは、「友の会」作りと建設資金の訴えに回ります。「僕がフォルクスワーゲンを運転して、恰幅のいい波治君が横に座っているから、彼が理事長と間違えられたことも度々。が、訴えは、医療要求が切実な住民の中に、砂地に水がしみ込むように浸透します。友の会の五千万円の建設資金目標は、一五〇〇人から六四〇〇万円寄せられました。
 「キンイキョウ」との名称から、「変な新興宗教が来るのは困る」と反対運動が起きそうになったというエピソードを生みながらも、「民医連なんて初耳」という状況の中で看護師や事務のスタッフをそろえました。一三人中、萩原医師ら三人が三〇代前半で、後は二〇代の青年でした。何もかも若さで突破し、七月一六日に設立総会、一一月一七日開所というスピード。一九床の小さな診療所でしたが、道北全体を視野に入れた気概を込めて「旭川医院」と命名しました。
 この後、畑中恒人医師が函館に、時沢享医師が釧路にと続きました。
開設時のスタッフ(中央が荻原医師、右端が太田さん)
旭川医院の開設と波紋

 医院は、初めから週二回の夜問診療もスタートさせます。
 「働いていると、休みを取って病院へ行くなんてなかなかできません。夜問診療はありがたかった」と語るのは、創立時から「友の会」の活動を担ってきた阿部理さん(写真右下)。「あのころ医者といったら近寄りがたくて、患者がいろいろ聞くなんてできません。そこへ、親切で丁寧に説明してくれるうえ、患者から一切物を受け取らない。住民にとっては驚きでした」
 献身的な診療が評判をよび、閉設初日八人だった患者が連日つめかけるようになり、二階の病棟の廊下まであふれました。萩原医師は文字通り不眠不休の診察です。土・日ともなれば、みんなで集団検診、健康講座に出かけました。こうした活動は、市全体の医療のあり方、医師の姿勢に影響を与えます。夜間救急体制(当番医)ができたのもその一つです。
 二年後、患者が混み過ぎて混乱する前にと、千坪の十地を一億円で、借金もせずに購入。七七年に一条通医院、七九年には一条通病院を新築(当初三階、現在六階建)し、中心センターを確立。今日、下表に見るまでに成長してきました。
青年たちも明るく輝く

 青年職員の活動も活発です。昨年は民医連創立五〇周年記念企画「私たちのルーツを探ろう」にとりくみ、グループに分かれて「道北勤医協の.歴史」の発表を行ないました。この夏には、宗谷医院(一九九五年開設、一九床)を訪問、北海道のてっぺん"の医療事情を学びました。
 この活動の中心となった、介護老人保健施設「かたくりの郷」のソーシャルワーカー磯貝恵さん(25)は、「勤医協の原点にふれて、若い私たちに何が求められているのか、どういう医療をめざすのか分かってきました。がんばらなきゃ、という気持ちが持てだし、患者さんのためにいい介護をしていこうと思いました」と、明るい笑顔を返してきました。
 北の大地の熱い心は、いま、新しい世代へ引き継がれようとしています。
 青年が輝いているとき未来は明るい。
              太田候一記者(「いつでも元気」2004年12月号より転載)

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