読み物

平和のために語りつないで

2026年1月1日

新春対談 金子さんが語る 被爆後の体験
北海道民医連 会長  黒川 聰則
戦争の語り部  金子 廣子さん

新春対談 金子さんが語る 被爆後の体験
北海道民医連 会長  黒川 聰則
戦争の語り部  金子 廣子さん

 「被爆者と知られるのが嫌だった」。5歳で原爆を体験し、その後も差別や病に苦しんできた金子廣子さんは、被爆体験を語ることを避けてきました。しかし、東日本大震災を機に、語り部として歩み始めます。体験を語る意味、医療が果たす役割、そして若い世代への願いを対談で聞きました。


黒川 あけましておめでとうございます。2024年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞しました。代表委員の田中熙巳さんは、90歳を過ぎてもしっかりと被爆体験を語り続けています。


金子 受賞するなんて思わなかったので驚きました。私にもノルウェーでの授賞式へのお誘いがあったのですが、旅費の負担も大きいし足が痛いので断念しました。受賞の話題をきっかけに関心を持つ人が増えて、平和や被爆の歴史に目を向けることが未来をつくる力になると感じています。


黒川 今日は金子さんの人生をお聞きして、私たちの運動の糧にしたいと思います。よろしくお願いします。


金子 原爆が落とされたとき、私は5歳だったので、断片的な記憶しかありません。ただ、私の身に起きたことをお話ししています。兄弟は一男五女で、私は末っ子でした。原爆の日、家には父と私と、帰省中の姉がいて、母は買い出しに出ていました。

 爆風で家中のガラスが割れて、床はガラスと血でいっぱいになりました。その夜、中学校のグラウンドに避難して寝たことを覚えています。

 三女の姉は女学校で背中から被爆し、施設に運ばれて1週間後に亡くなりました。遺体にウジが湧いていた光景が衝撃的で、今も覚えています。火葬も燃料不足で十分に燃えず、頭と胴体が残ったので足の骨だけを持って帰りました。四女と兄はしばらく疎開していました。


黒川 5歳でそれほどの経験をされたのですね。どれだけ壮絶だったか、想像が追いつきません。その後の生活はいかがでしたか。


金子 小学校に入る頃は食糧不足で、食事を巡って父と母が喧嘩していました。食料を求めて家族で秋田に引っ越しました。転校先で「広島から来た子」と紹介されると、「近づくと病気がうつる」と言われ避けられました。辛い日々を誰にも相談できず、苦しみました。

 その後、喉元から膿が出てきましたが、当時は原爆の後遺症とは知りませんでした。治療してやっと治ったのは小学4年のときでした。その頃、父が原爆の影響で亡くなりました。

 生活に困った母は、私が10歳のときに長姉を頼って北海道に渡りました。私は母と離れ、姉や親戚の家を転々としていました。食事や生活の面で気を遣う日々で、母に会いたくて毎日泣いてばかりいました。6年生のとき、母が安定した仕事と住まいを得て、ようやく札幌で一緒に暮らせました。迎えに来てくれた母の顔を見たときは、本当にほっとした気持ちが込み上げました。

 ところがある時、母が「あなたがいなければね」と、ため息混じりに呟いたことがありました。その言葉がとても辛くて、ずっと心に残りました。大人になってから母にそのことを聞きましたが、「そんなことを言うはずない!」と叱られました。当時は母も本当に辛かったのだと思います。


黒川 原爆のせいでいじめられ、幼い頃からたくさんの苦労をされたのですね。お母さんも大変だったのでしょうね。


金子 しばらくは私と母と兄で暮らすようになりました。中学を卒業するとき、母から高校進学を勧められましたが、母の苦労を思って働くことにしました。昼は働いて、夜は洋裁学校に通いました。多くの苦難を乗り越えながら、少しずつ生活を築いていきました。

 兄が結婚したことで家に居づらくなり、22歳のときに取引先のお誘いで東京の商店に勤めました。東京オリンピックの翌年まで勤めましたが、東京の梅雨が合わなくて体調を崩しました。その頃、北海道で知り合った金子さんから手紙がよく届いていました。連絡を取り合って北海道に戻り、結婚しました。

 しばらくは元気でしたが、50歳を過ぎてから体調を崩しました。母が亡くなった後、北海道被爆者協会から入会案内が届きましたが、被爆者と知られるのが嫌で入会しませんでした。


黒川 体調を崩されたとき、病院に相談しましたか。


金子 はい。近くの病院に行って「被爆の影響かもしれない」と相談しましたが、「それは関係ないでしょう」と言われ、とても辛い気持ちになりました。原爆の被害を知らない医者がいるのかとショックで、被爆者であることを言いたくなくなりました。

 55歳を過ぎた頃、北海道被爆者協会の越智晴子会長が「勤医協に相談しなさい」と勧めてくれました。勤医協西区病院で当時院長の国田晴彦先生が丁寧に検査して、甲状腺機能低下症と診断してくれました。本当にありがたかったです。初期治療のおかげで手術もせずにすみました。今も感謝しています。姉たちはがんになり、私も80歳で胆のうがんになりましたが、先生方に支えられて命をつないできました。


黒川 医学部では「戦争と医学倫理」について学ぶ機会はほとんどありません。そうした中で国田先生が原爆症の知識もお持ちで、目の前の患者さんの症状や訴えに真摯に向き合ったことをお聞きし、私たちの先輩医師としてのその姿を誇りに思います。私たちも学びたい姿勢です。金子さんは現在、語り部として活動されていますね。どのような思いがあったのですか。


金子 60歳になった頃、母の知り合いから「全国で被爆者が訴訟を起こす動きがある」と聞きました。裁判でたたかえるかもしれないというので約10年間、被爆者認定を求めて裁判を続け、私は認定を受けることができました。裁判中も語り部を頼まれましたが断っていました。

 転機になったのは、2011年の東日本大震災でした。テレビで「放射能を浴びた子は将来、病気が出る」と心配する母親を見て、5回の手術をしていた自分と重なり、心が大きく揺れ動きました。

 そのときに北海高校の先生から「人生を語ってほしい」と依頼を受け、話す決心がつきました。震災で北海道に避難してきた方々は放射能の怖さを知っていて、私の話に頷き、深く受け止めてくれました。語り部を続けて10年になりますが、語ることで自分自身も救われている気がします。


黒川 戦後も過酷な生活と差別に苦しんだことを聞いて、深く胸が痛みました。被爆者の生活苦や差別は、今も十分に知られていません。嫌な記憶を思い出すことは辛いと思いますが、語ってくれることで一人ひとりに原爆の恐ろしさが刻まれると思います。


金子 いじめられたから被爆を隠したかったのは、原爆の実態が国民に知らされず、無知と偏見が広がったせいでもあります。しかし、東北の地震を機に放射能の恐ろしさへの理解が広がり、私の話を聞いてくれるようになりました。

 勤医協の友の会からも声がかかれば語りに行っています。北海道民医連友の会連合会の横山博子会長に出会って友の会に入りました。みなさんが関心を持って聞いてくれることが、何より励みになります。


金子 ある小学校で語ったとき、5年生の子に「被爆者なのに、どうして子どもを産んだのですか?」と聞かれて頭が真っ白になり、上手く答えられませんでした。帰宅して夫に話すと「結婚する時に医者から『子どもだけは産ませるな』と言われていた」と、初めて打ち明けてくれました。50年も黙っていた夫の気持ちを知り、胸がいっぱいになりました。


黒川 子どもたちが知らないのは無理もありません。学校では現代史を教えてくれません。80年前に戦争があったことくらいは教えるかもしれないけど、日本軍がしたこと、七三一部隊のことなどはほとんど触れません。今の政治にも責任があります。学校で近現代史をしっかり学ぶように変えていかなければなりません。


金子 子どもは正直で率直です。だからこそ私は必ずこう締めくくります。「ばぁちゃんの話を聞いて、二度と戦争をしてはいけないと学んでください。大きくなったら平和にも関心を持ってください」と。


金子 語り部をしていて、家庭での会話がとても重要だと感じています。勤医協の集まりで語り部をすると、職員のお子さんたちは平和への関心が高いのです。理由を聞くと「小さいときから平和の話をしている」といいます。家庭で自然に耳にすることが、将来の感性につながるのだと思います。


黒川 私は自衛隊員の父のもとで育ちましたが、大学で平和や社会問題に触れて民医連に入りました。育つ環境も大事ですが、どこかで真実に触れる機会があることも大きいと感じています。人は学べば変わるし、社会も変えられます。だからこそ触れる機会を増やしたいと思います。


金子 多くの人がそれぞれの考えで平和を願っています。「これから私たちは何をすれば?」と聞かれた田中熙巳さんが、「あなたたちが考えて行動するんだよ」とおっしゃっていましたが、本当にその通りです。私たちはできることをやってきました。これからはみなさんが関心をもって行動してほしい。それが一番の願いです。


黒川 被爆者の高齢化が進む中、体験を聞く機会が減ってきます。被爆者や二世の方の体験を聞いて、そこから学んだことを「自分の言葉」として周囲に伝えていくことが大事になってくるのではないのでしょうか。


金子 札幌南高定時制の先生が被爆者協会があることを知り、資料を読み込んで生徒たちが朗読劇をしています。原爆ピアノの企画や高校生平和大使の活動も先生の働きかけひとつで、若い人たちが動いています。こうした広がりが本当に嬉しいのです。

 以前は戦争体験を語って、感想文が来て終わりでしたが、今は違います。ノーベル賞受賞もあり、関心のなかった人が耳を傾けるようになりました。

 治安維持法の展示会では、若い男性が「日本で戦争があったんですか?」と驚いていました。でも最後まで展示を見て、「スパイ防止法、怖いですね」と言ってくれました。私は、潮目は変わってきていると感じます。諦めず語り続けることが大事なんです。


黒川 本当にその通りだと思います。田中熙巳さんも「被爆者のつぶやきをそのままにせず、周囲の共感へ広げることが大事」と語っていました。当事者のつぶやきに広くアンテナを構え、問題意識を感じたら、自分の言葉として広げていくことが大切です。

 私たちは今、「ケアのあり方」について学んでいます。人は互いにケアしながら生きる存在で、力を合わせてケアに満ちた社会の実現をめざしたいと考えています。その対極にあるのが暴力や戦争、核兵器です。今日のお話を聞いて、「ケアの倫理」と深くつながっていると感じました。私たちも学んで正しい知識と歴史認識をもち、平和を語っていきたいと思います。今日はありがとうございました。

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