現場から

海が見たいんだ

2025年1月1日

十勝勤医協 老人保健施設ケアセンター白樺 人生最期を支えるケア

十勝勤医協 老人保健施設ケアセンター白樺 人生最期を支えるケア

 十勝勤医協・老人保健施設ケアセンター白樺で療養している86歳の菅野智大さん(仮名・要介護2)は、腎臓病を抱え、脳梗塞の後遺症もあり、体の左側が麻痺している。


 5月になって腎不全が進行し、人工透析の導入が検討された。しかし、菅野さんは治療せずに、このまま白樺で過ごすことを選んだ。余命は説明していなかったが、自分に残された時間がそう長くはないことを悟っていたようだった。そして夏のある日、「海を見に行きたい…」と介護士の伊藤光太さんに話した。

 港町で生まれ育ち、漁師の仕事をしていた菅野さんは、海が大好きだった。実現すれば、おそらく最後の旅になる。なんとかその願いを叶えることができないかと、医師、看護師、介護士、栄養士、リハビリ技士が集まって話し合った。

 しかし、実現は難しかった。心不全もあり、胸水と腹水が溜まっている非常に危険な状態で、急変するリスクが高い。みんなで悩んだ。

 白樺医院の浅沼建樹院長が言った。「自分の希望を誰かに伝えることも難しい状態なのに、菅野さんはよく言ってくれた。危険はあるけれど、本人が希望していることをダメとは言えない。体力が落ちて急変することは施設の中にいてもあり得ること」と、外出を許可した。


 さっそく次男の妻、愛子さん(仮名)に、広尾への旅行を提案した。

 「美しい景色、波の動きを見せてあげたい。多少の無理をしてでも、できることをしてあげたい。お義父さんもこれが最後だってわかってると思うから…。大丈夫ですよ。好きなことをする時は元気でいると思います。ぜひ行きましょう」。


 広尾港に南極観測船「しらせ」が来る日に合わせて、3日後の日曜日に決まった。家族8人といっしょに往復約160キロ、5時間の旅になる。ギャッジベッド付きのワゴン車を手配し、できるだけ疲れないように配慮した。急変した場合は最寄りの病院に駆け込めるように、診療情報提供書も準備した。

 「広尾に連れて行けるだけでも良かった。お義父さんは海育ちだから、海に潜ってウニをとってくれたりしたの。まるで河童みたいでしたよ。良いお義父さんでした」。愛子さんも旅ができることを喜んだ。


 当日の朝、「これから海を見に行きますよ」の声に、菅野さんは「うん、調子いいよ」と笑ってガッツポーズをしてみせた。

 職員と息子さんに抱えられて乗車し、看護師長と介護士の伊藤さんが付き添って、家族とともに楽しいひとときを過ごした。途中で寄った道の駅で買った唐揚げやソフトクリームを美味しそうに食べ、家族の会話を聞いたり、車窓に流れる景色を黙って見つめていた。


 潮の香りとともに、海原が見えてきた。

 「父さん見て、海だよ」。 菅野さんは頷き、涙を浮かべて施設では見せたことのない笑顔で喜んだ。家族といっしょに、いつまでも、いつまでも、大好きな海を眺めていた。


 「菅野さんから『海が見たい』と聞いたときは、実現は難しいと思いました。でもコロナ禍でなかなか家族と会えなかったし、願いを叶えてあげたくて、残り少ない時間をどうしていくべきか、みんなで考えました。菅野さんの笑顔をみて、本当にやってよかったと思いました」と伊藤さん。


 その翌月、菅野さんは家族に囲まれて、あらたな旅に立った。

 看取りを終えた家族は涙混じりの笑顔で「私たち、やり残したことはありません!」と、職員に胸を張ってみせた。

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