読み物

民医連ヒストリア 北海道民医連40周年企画

2018年1月1日

そこに戦争があった
北海道勤医協 月寒ファミリークリニック

 1978年に誕生した北海道民医連は今年40周年を迎えます。記念として、全道の院所・事業所のルーツを探る企画をシリーズで紹介します。第1弾は北海道勤医協月寒ファミリークリニックです。



 札幌地下鉄東豊線の月寒中央駅から徒歩数分、国道36号線の近くに月寒ファミリークリニックがあります。西側に広がる月寒公園からは、葉が落ちると市街地を望むことができます。この地になぜ勤医協の診療所がつくられたのか……そのルーツを探ると、そこには「戦争」がありました。(大須賀峰敏・県連事務局)


 月寒は札幌から室蘭を結ぶ「室蘭街道」の通り道として、明治の早くから開けました。高台に位置するため水の確保が難しいなどの困難もありましたが、リンゴや野菜が栽培され、のんびりとした風景が広がっていました。


兵士を育てる地に
 しかし明治29年、政府が月寒を陸軍の兵営地としたため風景が一変しました。当時の陸軍施設を現在の地図に重ねると、兵舎や訓練施設などの軍事施設がたくさんあったことがわかります。その中でもひときわ目につくのが「防空作戦室」。地上2階、地下3階の巨大なコンクリートの塊です。この建物は保存を求める声がありながらも残念ながら10年前に解体されてしまいました。
 また、現在の札幌第一高校の敷地には陸軍の「衛戍(えいじゅ)病院」がありました。最も多い時で陸軍歩兵第25連隊の約2000人もの兵士が兵舎に暮らし、その兵舎の正門の横の松は「営門の松」と呼ばれ、現存しています。兵士たちは営門の松を通って国道を札幌駅まで徒歩で下り、戦場に赴きました。「月寒アンパン」「アンパン道路」「西岡水源地」などの地名は、当時の陸軍に関連しています。




戦後、病気が蔓延
 戦争が終わり、帰還兵や樺太・千島からの引揚者、家を失った人たちが兵舎で暮らすようになり、多いときは5000人になりました。仕事もなく、配給物資は横流しされました。冬は兵舎の壁などを少しずつ燃やして暖をとるような状況だったといいます。寒さで病気が蔓延しましたが、受診はできませんでした。軍隊の解体とともに国立病院になった衛戍病院には多くの傷病兵が入院し、金持ちや一部の顔役しか治療をしてもらえませんでした。
 月寒には、週1~2回しか診療しない診療所が一軒あるだけでした。


自分たちの診療所を
 そんな中、「安心して受診できる病院を自分たちでつくろう」と立ち上がった人々がいました。荒井英二さんや中瀬政吉さんが加わっていた「豊平町民主化同盟」の人たちが診療所を作るための募金運動にとりくんだのです。
 「急病になってもただ死ぬばかり。売薬さえ満足にない。次から次へと死んでいく人が出ました」と、荒井英二さんは当時を振り返っています。その活動は定山渓や北広島にまで広がり、当時としては大金の10万円を超えたといいます。そのお金で馬小屋を買い取り、改造して勤医協月寒診療所を建設しました。1949年12月1日開院です。




戦争と平和が交差
 その後、月寒医院と名称が変更され、現在は「月寒ファミリークリニック」となっています。歩いて10分のところに、「平和公園」があります。ここでは毎年8月に平和盆踊りが開催され、2~3千人が集って平和の大切さを確認しています。公園の一画には、戦死した兵士を祀った「忠魂碑」があり、天皇のために忠誠を尽くして戦死した兵士の遺骨が4000柱あります。
 月寒ファミリークリニックは、「戦争」と「平和」が交差するまちに、労働者、庶民のたたかいから誕生しました。改憲をねらう人々は日本が起こした侵略戦争を賛美し、再び戦争できる国にしようとしています。そんな国になってしまったら、クリニックも平和盆踊りもなくなるかもしれません。誰もが盆踊りを楽しみ、受診できる世を守るためにたたかうことの大切さを月寒の地は教えています。



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