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民医連ヒストリア 置かれた場所で咲きなさい

2020年1月1日

北海道勤医協 検査部門

北海道勤医協 検査部門

中央検査センターがあった建物

  9月22日に札幌市内で開かれた「北海道民医連第22回技術系学術集談会」の検査部門シンポジウムで、北海道勤医協の臨床検査技師5人がシンポジストとして登壇しました。中央病院事務長の松田安正さん、医学生課の日光ゆかりさん、臨床研究・広報課の佐藤圭永さん、医師研修課の山田敏幸さん、そして検査部副部長の森亘さんは、検査部門が20年前におこなった「転換」とその後に歩んできた道について語りました。


成長する検査部門


 北海道勤医協の検査部門は1962年、菊水病院に検査技師が配置されたことで始まり、75年の中央病院開院に合わせて中央検査部機能を開始しました。そして、苫小牧病院(81年)、丘珠病院(82年)、北区病院(84年)など、病院や診療所の新設・拡大により機能と職員数を拡大。81年には、中央病院の向かいに第一別館が建てられ、検体検査部門や病理検査部門が入った「中央検査センター」を設置。増え続ける検査の要求に応えてきました。
 95年には、少しでも早く正確な結果を現場に報告できるようにと、中央検査センターに検体処理ができる大規模な検査システムを導入しました。たくさんの機器の間をスピッツなどが流れ、まるで製造工場のようです。職員は24時間体制で勤務しました。当時の内部収益は年間14億2000万円、利益で8700万円と、経営に貢献していました。


激変する情勢と転換


 2年に1度、診療報酬改定がされます。80年代からは毎回、検査が引き下げられました。特に検体検査では「まるめ(一つの検体で同時に測定できる検査を一括の点数にすること)」が広がりました。98年の改定では、療養病床と高齢者の通院で「包括医療」が導入されました。基本料に検査の点数が包括され、独自の算定ができなくなります。検査すると支出が増え、経営悪化につながります。
 こうした誘導によって中央検査センターの検体数が激減しました。検査部門の存続さえも見通せなくなる事態の中で北海道勤医協は「検査委員会」を設置し、長期方針の検討を開始。半年後に3点の基本認識を含む答申(※)を出しました。


答申の意義


 シンポジウムで松田さんは、「診療報酬改定で検査点数を下げ、入院医療にさまざまな制限を加えることで、政府は社会保障費を削減した。それが検体の激減、経営の困難の原因です。それは国民が必要な医療を受けられないことを意味し、生存権に対する攻撃です。私たち検査技師は、国民の健康権を守るために、国民とともにたたかってこそ将来が開けると答申で宣言しています」とのべました。
 佐藤さんは、「その言葉に民医連の医療人として魂を揺さぶられました。だからこそ部門全体が団結してとりくむことができたのだと思います」と振り返ります。
 また、答申では「検査の外注化がすすんでも臨床検査技師は患者のそばで仕事することが求められている」と確認され、検査部門の「覚悟」と「英知」で困難を乗り越えようと呼びかけられました。


なんのため、誰のための検査か


 答申は出たものの、検査部門の本当の困難はそこから始まりました。安井重裕検査部副部長(当時)を中心に、北海道勤医協の経営状況と情勢をくり返し学び、「今後、検査業務はどんどん減っていく。そのとき私たちはどうするのか、どうすべきなのか」を徹底して議論しました。議論の軸にあったのは「検査部門が生き残るためにどうしたらよいか」ではなく、「なんのため、誰のための検査なのか」。常にこの軸に立ち返って議論しました。
 たどり着いたのは、「『上から言われた方針だから従う』は絶対嫌だ」「自分たちがすすむ道にはどんな選択肢があるのか、自分たちで探そう。そして自分たちで決める」です。部門の縮小が必至な状況の中で、病棟への出向はできないか、健診部門を充実できないか、検査の説明やお返しに関われないか、などの意見が寄せられました。その意見をもとに各部門を見学し、持ち帰ってまた議論する日々が続きました。そして、「この仕事は検査技師の仕事かどうかではない」「医療の専門的知識や経験を持った検査技師だからこそ、どの部門に行ってもその力を発揮しよう」と意思統一。
 中央検査センターは2003年にその役割を終えました。最後の日に勤務していた多くの検査技師が涙したといいます。


一人ひとりの選択


 2000年、中央病院の病棟と健診課に検査技師を配置したことを手始めに、予約コーナーや連携部門、システム課、組織部門と、活躍の場を広げてきました。また、北海道勤医協に限らず、十勝や道東など、他法人で任に着きました。
 「検査への未練はたくさんありました。検査の仕事が面白くて仕方なかったのですから」と、佐藤さんと日光さんは語ります。しかし、「自分たちが他の部門に行くことで新人が採用でき、健全な組織をつくることができる」と役職者が率先して新しい任務に就いたのです。健診部門や医師研修、連携などの分野でその力をいかんなく発揮し、民医連運動の前進に大きな役割を果たしています。
 当時、主任として検査部門に残った高橋智子さんは、「先輩方の思いを胸に刻んで、民医連の臨床検査技師として奮闘しようと決意しました」と振り返ります。
 シンポジウムの最後に山田さんは、勤医協看護学校に勤務したときに知ったノートルダム清心女子大学学長・渡辺和子さんの言葉を紹介しました。

「置かれた場所で咲きなさい」




※ 検査委員会答申
・今、検査に深刻に表れている厳しさは、国民への攻撃
・検査の役割は今後ともなくならない
・持ち場にとらわれず従来の対応を超えた「覚悟」「英知」で立ち向かおう

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