ムーヴメント

私と憲法 身近な戦争体験

2018年5月22日

満州でみた戦争

勤医協札幌クリニック医師 佐藤冨士夫

満州でみた戦争

勤医協札幌クリニック医師 佐藤冨士夫

 僕が生まれたのは樺太の国境近くの上敷香町で、3歳まで居たかな。1943年に親父の仕事で満州の黒竜江省に引っ越したんだよ。1945年8月9日にソ連が参戦してきて、父親と12歳年上の兄はすぐに徴用された。残された母と5歳の僕と、2歳下の妹の3人で引き揚げることになったんだ。


 夜、駅で引き揚げの列車を待っていたら、駅舎が爆撃を受けた。母がテーブルの下に押し込めてくれたので無事だったけれど、機銃掃射で何人もの人が吹き飛ばされるのを見たよ。


 翌日、運よく引き揚げの列車に乗れたけど、屋根のない貨物車両に押し込められての逃避行だったね。線路が破壊されている所もあって、途中で歩いたりもした。僕たちのひとつ前の第6引揚げ団が空襲を受けたんだな。たくさん犠牲者が出た。線路脇にたくさんの遺体が横たわっていて、びっしりハエがたかって、そばによると一斉に飛び立つ。


72年経った今も鮮明に記憶している、脳裏から離れないんだな。途中ハルピンで奇跡的に親父と再会できて、それからはいっしょに引き揚げてきた。途中、流行っていた猩紅熱で妹を亡くし、遺灰を背負って大連から船で日本に帰ってきたんだよ。


 引き揚げ後は旭川で高校生まで過ごした。1950年に朝鮮戦争が始まって、アメリカが原爆を使うんじゃないかと噂が流れた時、原爆が落ちてくる夢を何度も見た。満州で見た光景が蘇って、戦争に敏感になっていたんだと思うね。


 1959年に北海道大学の医学部に入学した。ほどなく安保闘争の波が訪れ、いっしょに入学した森谷尚行先生(元北海道民医連会長)に誘われて学生運動に参加したんだな。日本がアメリカと軍事同盟を結んで再び戦争をする国になるのは許せないと強く思ったね。


 日米安保条約があるのにアメリカの戦争に加わってこなかったのは、憲法9条の力が大きかったと思う。韓国ではベトナム戦争に行った若者約5000人が戦死しているんだ。でも日本では72年間、ただの一人も戦争で殺されたり、また、他国の人を殺したりしていない。これはすごいことだと思うよ。憲法の力だね。


 戦争はある日突然やってくるものではないんだね。国は戦争を準備するために国民に必要な情報を隠し、自由にモノが言えなくする。医療や社会保障の予算を削って軍備を拡大する。戦争をおこなうための準備にも僕たちは敏感でなければならないと思うよ。今の安倍政権がおこなっている政治はまさに、戦争の準備そのものだね。


 僕は77歳で、戦争の記憶がある最後の世代だと思う。若い世代に伝えたいことは、戦争がいかに悲惨なものであるかということ。実際に戦地に送られた兵士、戦場で暮らす人々、肉親を戦争に奪われた家族、すべてを不幸にすることを忘れてはいけない。


 今年は明治維新から150年っていわれているけど、第2次世界大戦前の70年は、日本は戦争ばかりやっていた。でもその後の70年は戦争していない。平和な社会で経済も発展した。今の若い人も、かつて若かった人も憲法9条によって守られていたし、今も守られている。憲法はしっかり守らなくてはいけないと強く思うよ。

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